超読み日記
読書をして、まさかこんな風は書いていないという超越した読み方をして、思いついた脳内を記します。
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増田セバスチャン
きゃりーぱみゅぱみゅぱみゅぱみゅのアートディレクター
「増田セバスチャン」
こいつは、すごい。
記録にとどめておこう。
現実逃避と消費と夢幻想と不確実性と、反ゲシュタルト、予想定義の裏切り。
混沌の秩序。そして動物的性衝動の、合法的潜在意識の書き換え。
あるで60年代のロンドン発のサイケデリックが、カラーテレビを通じて、世界を揺さぶったように。2012年に東京発のkawaiiで、ネットを通じて世界を揺さぶっている。
これは、プラグだ。
戦争は、貸し剥がしからの誠実なる返済、もしくは責任転嫁の借金の踏み倒し参加へ強要洗脳。
芸術は、借金の請求書に、キャピタル付加のババ化の二重債権の創造。
増田セバスチャンに感染した者は、国家公務員の娘の自己破産へと導く。
間接的に国家の破産への恐怖から守る精神安定剤となって、破壊を促進する。
Kawaiiは、意表をついた欠点のない組み合わせの選択に対する讃辞である。
同じ組み合わせを、二度つかうと、まただと幻滅を感じさせる。
さらに三度つかうと。dasaiという評価を与えられる。
四度目になると、kimoという批判が浴びせられる。
それは、生産者にとっては、消費促進と陳腐化促進の見事な発動機。
混合気が圧縮されて、まさにスパークが加わった瞬間。
爆発がおこれば、お金と欲望の交換のカムをまわして、あとは廃棄される。
国家が、外貨を稼ぐ手法としての、現実逃避幻想の現金への交換反応促進素材。
芸術という武器で、国家の合法的幻想中毒患者から消費を生み出していく。
まさに増田セバスチャンは、消費のエンジンプラグである。
企業は、光を当てて、広告というノイズで魚を呼び寄せ。欲望のさざ波を立てる。消費のうねりを作る。そして潮位の変動効果を生み出す。
その欲望の高まりに金という小魚が吸い寄せられて、
小魚が吸い寄せられた後には、欲望の潮位は下がり、干潟だけが残る。
魚群がカネ、海は欲望。波は経済。
「増田セバスチャン」
こいつは、すごい。
記録にとどめておこう。
現実逃避と消費と夢幻想と不確実性と、反ゲシュタルト、予想定義の裏切り。
混沌の秩序。そして動物的性衝動の、合法的潜在意識の書き換え。
あるで60年代のロンドン発のサイケデリックが、カラーテレビを通じて、世界を揺さぶったように。2012年に東京発のkawaiiで、ネットを通じて世界を揺さぶっている。
これは、プラグだ。
戦争は、貸し剥がしからの誠実なる返済、もしくは責任転嫁の借金の踏み倒し参加へ強要洗脳。
芸術は、借金の請求書に、キャピタル付加のババ化の二重債権の創造。
増田セバスチャンに感染した者は、国家公務員の娘の自己破産へと導く。
間接的に国家の破産への恐怖から守る精神安定剤となって、破壊を促進する。
Kawaiiは、意表をついた欠点のない組み合わせの選択に対する讃辞である。
同じ組み合わせを、二度つかうと、まただと幻滅を感じさせる。
さらに三度つかうと。dasaiという評価を与えられる。
四度目になると、kimoという批判が浴びせられる。
それは、生産者にとっては、消費促進と陳腐化促進の見事な発動機。
混合気が圧縮されて、まさにスパークが加わった瞬間。
爆発がおこれば、お金と欲望の交換のカムをまわして、あとは廃棄される。
国家が、外貨を稼ぐ手法としての、現実逃避幻想の現金への交換反応促進素材。
芸術という武器で、国家の合法的幻想中毒患者から消費を生み出していく。
まさに増田セバスチャンは、消費のエンジンプラグである。
企業は、光を当てて、広告というノイズで魚を呼び寄せ。欲望のさざ波を立てる。消費のうねりを作る。そして潮位の変動効果を生み出す。
その欲望の高まりに金という小魚が吸い寄せられて、
小魚が吸い寄せられた後には、欲望の潮位は下がり、干潟だけが残る。
魚群がカネ、海は欲望。波は経済。
賀川昭夫の言葉
ミクロ経済学ですが、ミクロ経済学で教えていますことは何かと言いますと、
私たちが行う行動と言うのは、すべて、選択、チョイスであるという事。
で、したがって、あることをやりたいということがあり、おこってきますと、
選択肢を何個か用意すると。
で、その中で、ランキングをつけるわけです。
一番目は、これだ、二番目はこれだ、三番目はこれだとランキングをつけます。
そして、その中で、順番に、ランキングの高いものからとっていく。
そうすると、一番いいものをとったんだけど、うまくいかなかったと。
そうすると、二番目をとるだろうと。
二番目をとってもうまくいかなかった場合には、三番目をとりという。
全て、我々は、チョイスすることが基本であって、
そのランキングをつけるのは、たとえば、コスト・ベネフィット・アナリストというような、費用便益分析であるといういうふうに。
したがって、われわれが実際に生きていく時に、生活していくときに、何かあった場合には、少なくとも複数個の選択肢を用意する。
これが、ミクロ経済学が教えていることです。
他方、マクロ経済学というのは、今度は経済政策について、何をどのように判断するかという基礎を与えてくれています。
「経済学者が百人いると、答えが、百一個あると。
一人で二つ出すのがケインズだ」という笑い話がありますが、
それぐらい、一つの問題に対して答えはいくらでもあります。
仮定を少し変えれば、答えはガラッと変わります。
したがいまして、これしかないというのは、考える必要がなくて、
これもあるし、あれもあるという、
ある意味で、ちゃらんぽらんと言っては言いすぎかもしれませんが、
非常にリジット(堅く)考える必要のない、そして自分の頭で判断して、
経済学、経済政策について考えればよろしい。
これが、マクロ経済学が教えてくれていることです。
賀川昭夫
超読みは思いました。
つまり、個人の欲望の損得勘定がミクロ経済で、労働者の生産性向上と消費市場の開拓と国家の国民総生産誘導がマクロ経済でしょうか。
個人消費はミクロ経済、税収経済がマクロ経済。
じゃあ、その欲望を沸かせる、住んでみたい共同体のビジョンを描き、人々にその実現への共同幻想を抱かせる事が政治家でしょうか。
つまり、経済とは、共同幻想誘導の、幻想モブ反応だということでしょう。
投資家は、共同幻想建設に対する実現力保障を応援します。
そこに住むためには、売れる生産品の確定と、生産インフラの整備と生産力としての労働力の集約。
労働生産価値の上納と、共同幻想住民たちの共同建設と共通規約と技術理論が必要です。
生産インフラと生存保障を持つ者の共同幻想実現力の継続維持構造図を描ける者が経済を動かし始めます。
吉本隆明没(2012年3月16日)
私たちが行う行動と言うのは、すべて、選択、チョイスであるという事。
で、したがって、あることをやりたいということがあり、おこってきますと、
選択肢を何個か用意すると。
で、その中で、ランキングをつけるわけです。
一番目は、これだ、二番目はこれだ、三番目はこれだとランキングをつけます。
そして、その中で、順番に、ランキングの高いものからとっていく。
そうすると、一番いいものをとったんだけど、うまくいかなかったと。
そうすると、二番目をとるだろうと。
二番目をとってもうまくいかなかった場合には、三番目をとりという。
全て、我々は、チョイスすることが基本であって、
そのランキングをつけるのは、たとえば、コスト・ベネフィット・アナリストというような、費用便益分析であるといういうふうに。
したがって、われわれが実際に生きていく時に、生活していくときに、何かあった場合には、少なくとも複数個の選択肢を用意する。
これが、ミクロ経済学が教えていることです。
他方、マクロ経済学というのは、今度は経済政策について、何をどのように判断するかという基礎を与えてくれています。
「経済学者が百人いると、答えが、百一個あると。
一人で二つ出すのがケインズだ」という笑い話がありますが、
それぐらい、一つの問題に対して答えはいくらでもあります。
仮定を少し変えれば、答えはガラッと変わります。
したがいまして、これしかないというのは、考える必要がなくて、
これもあるし、あれもあるという、
ある意味で、ちゃらんぽらんと言っては言いすぎかもしれませんが、
非常にリジット(堅く)考える必要のない、そして自分の頭で判断して、
経済学、経済政策について考えればよろしい。
これが、マクロ経済学が教えてくれていることです。
賀川昭夫
超読みは思いました。
つまり、個人の欲望の損得勘定がミクロ経済で、労働者の生産性向上と消費市場の開拓と国家の国民総生産誘導がマクロ経済でしょうか。
個人消費はミクロ経済、税収経済がマクロ経済。
じゃあ、その欲望を沸かせる、住んでみたい共同体のビジョンを描き、人々にその実現への共同幻想を抱かせる事が政治家でしょうか。
つまり、経済とは、共同幻想誘導の、幻想モブ反応だということでしょう。
投資家は、共同幻想建設に対する実現力保障を応援します。
そこに住むためには、売れる生産品の確定と、生産インフラの整備と生産力としての労働力の集約。
労働生産価値の上納と、共同幻想住民たちの共同建設と共通規約と技術理論が必要です。
生産インフラと生存保障を持つ者の共同幻想実現力の継続維持構造図を描ける者が経済を動かし始めます。
吉本隆明没(2012年3月16日)
桃介夜話(56)
第四夜
金の性根のある話
(二七)
浜口内閣は貧乏籤を引きあてたかたちである。
財政的にも、経済的にも、全面的大整理を必要とする難局の担当者として、緊縮節約方針を採ったことは当然である。
浜口首相の補佐役は江木鉄相であろうと、副総理は安達内相であろうと、左様な事は問題とするに足らず、浜口内閣の重心は、井上蔵相の上に懸かっている。
と云うのが適当でないならば、財政経済の建直し政策が浜口内閣の中心問題であると訂正しても宜しい。
兔に角組閣当時浜口君が、与党内の異論を制して、党外人(其後入党)の井上準之助君を、民政党内閣の大蔵大臣に起用して、時艱対処の大任を委嘱したのは、大に井上君に期待する処あったからに相違あるまい。
財政経済に対する井上君の造詣は素よりのこと、井上君の財界に於る人望、平たく云えば、財界人として井上君の顔の広いことが、政策遂行の上に、どれだけ力強く効果的であるべきかに、依頼を懸けたものであろう。
井上君としても、蔵相の椅子は二度目の見参、特に光栄とする若輩者のように、前後無差別に食い著いた訳じゃあるまい。
多大の障碍困難に打勝つ勇気と、相当に局面をこなし得る経綸と成算あっての事でなければならず、井上蔵相が腹案を繰りあげ、浜口首相が合流合作する処に、大整理の眼目を観るべく、我々は期待したのである。
浜口内閣組閣後約半年にして、昨年正月を以て、金解禁を断行したのは、まさに井上蔵相のお手柄である。
従来井上君は、金解禁尚早論者を以て知られ、持論訂正乃至放棄の声明を聞く処なくして、而して卒然として金解禁の勇敢なる実行者として、浜口内閣の蔵相に就任したことに就て、世間往々井上君の変節を非難する声を聞くのである。厳密に批評すれば、或はそんなものかも知らないが、金解禁は、当然日本として為さねばならぬ事を、為したもので、しかも可なりの難事業を押切って断行したのは、相当の自信と勇気を要し、井上君持論の訂正を実行を以て示したものと観るべく、強いて井上君の前言を質として、態度の豹変を云々するに及ぶまい。
在外正貨の金準備繰入れを廃したことも、井上君の見識である。
発券制度上の違法を是正し、とかく悪用されがちの通貨政策上の弊根に、一刀を下したのは、解纂善処策としても、当然そうあらねばならぬ事だ。
緊縮節約と云うも異議はない。
民間の消費節約も、会社銀行等の整理緊縮も、当然為さねばならぬ事柄である。
政府の勧奨督励と、当事者個々の自省奮発によって、充分の効果を挙ぐべきであるが、どうも我々の理解しかねるのは、緊縮節約に対する政府自身の態度である。
緊縮節約を励行すべくんば、最大消費機関たる政府先ず鋭意して其の範を示すのが浜口内閣の責任であり、特に蔵相井上君の果断決行を要する重点であって、この辺から井上君を褒めてばかりいられない。
井上君は云うであろう。
政府は誠心誠意を以て、五年度実行予算の上に、六年度予算編成の上に、能うだけの緊縮節約を行っていると。
緊縮節約を次第詰りの意と解するならば、或は左様な口上が通るかも知れず、井上蔵相の財政の切盛は、頗る当を得たものでもあろうが、併しながら、浜口内閣自慢の緊縮節約というは、次第詰りに引きずられて、ぐずぐずに縮んで行くだけのことではあるまい。
而して蔵相井上君の財政的大手腕を以てする緊縮節約の建前が、次第詰りに縮む他の何ものでもないとなると、これは少々問題ものであるまいか。
金の性根のある話
(二七)
浜口内閣は貧乏籤を引きあてたかたちである。
財政的にも、経済的にも、全面的大整理を必要とする難局の担当者として、緊縮節約方針を採ったことは当然である。
浜口首相の補佐役は江木鉄相であろうと、副総理は安達内相であろうと、左様な事は問題とするに足らず、浜口内閣の重心は、井上蔵相の上に懸かっている。
と云うのが適当でないならば、財政経済の建直し政策が浜口内閣の中心問題であると訂正しても宜しい。
兔に角組閣当時浜口君が、与党内の異論を制して、党外人(其後入党)の井上準之助君を、民政党内閣の大蔵大臣に起用して、時艱対処の大任を委嘱したのは、大に井上君に期待する処あったからに相違あるまい。
財政経済に対する井上君の造詣は素よりのこと、井上君の財界に於る人望、平たく云えば、財界人として井上君の顔の広いことが、政策遂行の上に、どれだけ力強く効果的であるべきかに、依頼を懸けたものであろう。
井上君としても、蔵相の椅子は二度目の見参、特に光栄とする若輩者のように、前後無差別に食い著いた訳じゃあるまい。
多大の障碍困難に打勝つ勇気と、相当に局面をこなし得る経綸と成算あっての事でなければならず、井上蔵相が腹案を繰りあげ、浜口首相が合流合作する処に、大整理の眼目を観るべく、我々は期待したのである。
浜口内閣組閣後約半年にして、昨年正月を以て、金解禁を断行したのは、まさに井上蔵相のお手柄である。
従来井上君は、金解禁尚早論者を以て知られ、持論訂正乃至放棄の声明を聞く処なくして、而して卒然として金解禁の勇敢なる実行者として、浜口内閣の蔵相に就任したことに就て、世間往々井上君の変節を非難する声を聞くのである。厳密に批評すれば、或はそんなものかも知らないが、金解禁は、当然日本として為さねばならぬ事を、為したもので、しかも可なりの難事業を押切って断行したのは、相当の自信と勇気を要し、井上君持論の訂正を実行を以て示したものと観るべく、強いて井上君の前言を質として、態度の豹変を云々するに及ぶまい。
在外正貨の金準備繰入れを廃したことも、井上君の見識である。
発券制度上の違法を是正し、とかく悪用されがちの通貨政策上の弊根に、一刀を下したのは、解纂善処策としても、当然そうあらねばならぬ事だ。
緊縮節約と云うも異議はない。
民間の消費節約も、会社銀行等の整理緊縮も、当然為さねばならぬ事柄である。
政府の勧奨督励と、当事者個々の自省奮発によって、充分の効果を挙ぐべきであるが、どうも我々の理解しかねるのは、緊縮節約に対する政府自身の態度である。
緊縮節約を励行すべくんば、最大消費機関たる政府先ず鋭意して其の範を示すのが浜口内閣の責任であり、特に蔵相井上君の果断決行を要する重点であって、この辺から井上君を褒めてばかりいられない。
井上君は云うであろう。
政府は誠心誠意を以て、五年度実行予算の上に、六年度予算編成の上に、能うだけの緊縮節約を行っていると。
緊縮節約を次第詰りの意と解するならば、或は左様な口上が通るかも知れず、井上蔵相の財政の切盛は、頗る当を得たものでもあろうが、併しながら、浜口内閣自慢の緊縮節約というは、次第詰りに引きずられて、ぐずぐずに縮んで行くだけのことではあるまい。
而して蔵相井上君の財政的大手腕を以てする緊縮節約の建前が、次第詰りに縮む他の何ものでもないとなると、これは少々問題ものであるまいか。
桃介夜話(55)
第四夜
金の性根のある話
(二六)
前述の如く大正八年より昭和四年に至る十一年間に貿易の輸入超過額は累計四十三億八千万円なるに正貨の流出額は十三億だとあれば残額三十億の決済はどんな手続を以て滞りなく完了されたのであるか。
こういう場合に極めて都合の好いものに、例の貿易外受取勘定と云うのがある。
その年々の状勢により、一率には行かないが、好況時には三四億円にも上り、概して一億五千万円以上程度の手取計算となっていたものだ。
(昭和五年度は五千万円程度に激減したと云う)此方の受取勘定分は、第一に、随時必要に応じて、入超決済用に充当されたのである。
世界航路を昼夜かけて、一浬若干から、稼ぎ上げた船会社の収益も、巨億の海損負担を冒険して、緩かに剰し得たる保険料収入も、異境の地に骨身をくだいて労苦に従う移民達が、懐郷綿々の情を託する送金も、その他、何、何、一個一個生命を呼吸する金貨の堆積か、底無し井戸に跳び込んで来たようなものである。個々の計算に於ては、元より正味割引なしの大利得に相違ないが、国としては徒らに是等の利得を相殺し、厘毛の富を増すに至らず、大きな尻を拭ったのである。
次には外資国債である。
大正十三年二月中、第一回三億九十万円、第二回二億四千四百七万五千円の手取募集あったが、若干の外債利払準備金、政府用品輸入代金充当分□を控除した残額は、やっぱり入超の決済用に充当されたものと見て大過あるまい。而して政府輸入品代金は、紛れもない入超のおまけ分である。
外資地方債は、大正十四年から昭和三年迄に於て、東京市債七百万ポンドを主として、一億二千九百万円の募集となっている。これも正貨としての用途は、同断入超決済用の他にあり得ない。
外資社債の方は東電東邦大同等を合して三億四千万円前後となるやっぱり正貨としての用途は、何分の一かの入超決済の御奉公をしたのである。
勿論社債輸入者は、内地に於て、兌換券を以て換金を入手しているから、社債輸入者の計算に於ては、入超決済と無関係であるが、これも国としての計算に於ては、右手で受け入れて、左手で払い出してしまったので、残る所は何もない。
ただ借金が社債輸入者の責任に於て活きているばかりのことだ。
そんな事では、輸入資本は、輸入と同時に、活用の一半を減殺されたものである。
由来、産業資本は資本金その儘の形態を以て留保さるるものでなく、種々の形態を取って固定し、一方現金として市場に流れ出して、一般の融通に資する副作用を有するのである。
この点、内資も外資も同様であるが、内資資本は、内地市場から吸収され、更に内地市場に還元するのであるから、結局市場の融通量に増減なき理にて、その利用価は、本質的に一次的である。
外資資本は然らず、換金の代償たる外資正貨は、直ちに金準備たるべく、若くは金準備たるべき約束を有するがゆえに、換金による資本は、更に同量の新遊資の市場放流となり、それだけ市場の融通能力を添加する関係に於て、その利用価は、本質的に二次的である。
ここに外資の妙用があるのだ。
それは通貨の膨脹を背景とすること勿論であるが、通貨膨脹の利弊論を以て、此の約束を覆すことは出来ぬ。膨脹に対する適当の調節策を講ずることは、中央銀行の執るべき責任であって、外資輸入者の与り知ったことではない。
既に換金を受取って売り渡してしまった外資正貨は、何ういう風に処分されようと、輸入者は傍観してる外ないが、事もあらうに、だらしのない入超尻を拭かされ、二次的利用価を半殺しにされたのでは、折角の外資は泣かされねばならぬ。
結局三十億と云う貿易尻の大きな穴は国債、地方債、社債の外資と、貿易外受取勘定の一団とによって二分担したかたちである。
金の性根のある話
(二六)
前述の如く大正八年より昭和四年に至る十一年間に貿易の輸入超過額は累計四十三億八千万円なるに正貨の流出額は十三億だとあれば残額三十億の決済はどんな手続を以て滞りなく完了されたのであるか。
こういう場合に極めて都合の好いものに、例の貿易外受取勘定と云うのがある。
その年々の状勢により、一率には行かないが、好況時には三四億円にも上り、概して一億五千万円以上程度の手取計算となっていたものだ。
(昭和五年度は五千万円程度に激減したと云う)此方の受取勘定分は、第一に、随時必要に応じて、入超決済用に充当されたのである。
世界航路を昼夜かけて、一浬若干から、稼ぎ上げた船会社の収益も、巨億の海損負担を冒険して、緩かに剰し得たる保険料収入も、異境の地に骨身をくだいて労苦に従う移民達が、懐郷綿々の情を託する送金も、その他、何、何、一個一個生命を呼吸する金貨の堆積か、底無し井戸に跳び込んで来たようなものである。個々の計算に於ては、元より正味割引なしの大利得に相違ないが、国としては徒らに是等の利得を相殺し、厘毛の富を増すに至らず、大きな尻を拭ったのである。
次には外資国債である。
大正十三年二月中、第一回三億九十万円、第二回二億四千四百七万五千円の手取募集あったが、若干の外債利払準備金、政府用品輸入代金充当分□を控除した残額は、やっぱり入超の決済用に充当されたものと見て大過あるまい。而して政府輸入品代金は、紛れもない入超のおまけ分である。
外資地方債は、大正十四年から昭和三年迄に於て、東京市債七百万ポンドを主として、一億二千九百万円の募集となっている。これも正貨としての用途は、同断入超決済用の他にあり得ない。
外資社債の方は東電東邦大同等を合して三億四千万円前後となるやっぱり正貨としての用途は、何分の一かの入超決済の御奉公をしたのである。
勿論社債輸入者は、内地に於て、兌換券を以て換金を入手しているから、社債輸入者の計算に於ては、入超決済と無関係であるが、これも国としての計算に於ては、右手で受け入れて、左手で払い出してしまったので、残る所は何もない。
ただ借金が社債輸入者の責任に於て活きているばかりのことだ。
そんな事では、輸入資本は、輸入と同時に、活用の一半を減殺されたものである。
由来、産業資本は資本金その儘の形態を以て留保さるるものでなく、種々の形態を取って固定し、一方現金として市場に流れ出して、一般の融通に資する副作用を有するのである。
この点、内資も外資も同様であるが、内資資本は、内地市場から吸収され、更に内地市場に還元するのであるから、結局市場の融通量に増減なき理にて、その利用価は、本質的に一次的である。
外資資本は然らず、換金の代償たる外資正貨は、直ちに金準備たるべく、若くは金準備たるべき約束を有するがゆえに、換金による資本は、更に同量の新遊資の市場放流となり、それだけ市場の融通能力を添加する関係に於て、その利用価は、本質的に二次的である。
ここに外資の妙用があるのだ。
それは通貨の膨脹を背景とすること勿論であるが、通貨膨脹の利弊論を以て、此の約束を覆すことは出来ぬ。膨脹に対する適当の調節策を講ずることは、中央銀行の執るべき責任であって、外資輸入者の与り知ったことではない。
既に換金を受取って売り渡してしまった外資正貨は、何ういう風に処分されようと、輸入者は傍観してる外ないが、事もあらうに、だらしのない入超尻を拭かされ、二次的利用価を半殺しにされたのでは、折角の外資は泣かされねばならぬ。
結局三十億と云う貿易尻の大きな穴は国債、地方債、社債の外資と、貿易外受取勘定の一団とによって二分担したかたちである。
桃介夜話(54)
第四夜
金の性根のある話
(二五)
忘却してならないのは、日本は金輸出禁止国であったことだ。
大戦中、米国は一時金の輸出を禁止し、一年にして禁を解いた。
日本は米国の後を追っかけて禁止したが、米国解禁の例に倣わず、依然として禁止を継続したのである。
米国は金の自由国として、多産多売の徹底化を以て、戦時戦後の大景気を作り出した。
今は行き過ぎの咎によって、久し振りで不景気の苦味を満喫しつつあれど、金融的にも、産業的にも、世界をリードする立場は確乎たるものだ。
日本は一に繁栄を金輸出禁止にかけて、而して何物を掴んだのであるか。
米国の例などは何うでもよろしい。
日本は日本独自の経済政策を掲揚して進退するの、寧ろ一見識たるを障げないが、ただ一向に金禁輸にこだわり著いて、不断の繁栄を夢想したのは、守株の愚に堕するところ無かったとは申されまい。
厳重に大金庫の扉をとざして、馬鹿番をしていたところで、肝腎の貿易尻が抜けていては、やっぱり正貨は出て行くのだ。
政府当局者の出たらめな馬鹿囃子につれて、日本国中の人間が浮かれ立って、景気だ景気だと無我夢中で、三十億円の景気祭を踊り狂ってしまったのだ。本気の沙汰じゃないのである。
金禁輸の或る程度の実績は、為替政策の善処に期待し得られぬこともないが、それは真個の或る程度の効果である。
結局は貿易の実勢に引きずられて、入超の正貨決済は避け得らるることでない。
国際取引の当然の手続であり、日本の金禁輸と否とに拘りのないことだ。
正貨決済がいやならば、入超尻をつくらぬ工風が肝要である。無節制な通貨の膨脹を抑制して、輸入の増勢を阻止する他に途はない。
即ち、為替政策では力及ぼず、通貨収縮を基調とする本筋の経済政策に準拠しなければならぬのである。
こんな事は、百も合点ながら、通貨収縮で人気を落すより、熱狂的景気を煽っている方が、政府側の都合がいいので、膨脹政策遂行の方便として叩き出したのが産業振興の題目である。
産業の振興には、潤沢なる資金の融通が必要だ。通貨をたぶつかせて置くのには、金解禁は禁物である。そこで金禁輸を継続して、貿易尻の調節は、為替政策でよろしく糊塗しようと、とんでもない大問題をやり出したのが、高橋是清君自慢の積極政策である。
正金頭取、日銀総裁と、銀行屋から、成り出した大蔵大臣高橋是清君が、この誤った循環論理にとらわれ、為替政策の効験に過信を置いたのは人物相当の芸当として、一個未熟な政治家の失打算が、政党内閣の実際政策となり、やがて国策の大破綻となったのだから袂である。
大正八年から、同十一年上半に至る、戦後経営の最重要の時代に方り、原内閣の蔵相として、首相兼蔵相として、高橋是清君大活躍の大経綸は、こうした滅茶苦茶なものであった。
目的方向の一致しない、金禁輸と、インフレーションの協同作業を以て、日本の産業の劃期的土台固めを、実際に遂行し得る積りであったのなら、それは高橋是清君の思想の混乱以外の何ものでも無かったのである。因果と又、高橋大蔵大臣統制下の、大正八年度から、大輸入超過期が転回して来て始末に行かぬ事となった。禁輸の呪符でぴたりと密封した筈の大金庫から、止め度なく正貨が流れ出して、これや何うもならんと、日本国中の人が気のついた頃には、□勢支え難く、呆然自失の混沌期に到著していたのだ。
産業振興の大太鼓は、無数のコタ事業を叩き興し、叩き潰し、さんざんの為体を現じた。
政府の規模は堂々と拡大され、政費は急激に増加し、国民所得の減退に関係なく、当然増に作為増の責め鼓を打続ける。入超は依然たり、禁輸正貨の吐き出し位で、間に合う騒ぎじゃなくなったのである。
金の性根のある話
(二五)
忘却してならないのは、日本は金輸出禁止国であったことだ。
大戦中、米国は一時金の輸出を禁止し、一年にして禁を解いた。
日本は米国の後を追っかけて禁止したが、米国解禁の例に倣わず、依然として禁止を継続したのである。
米国は金の自由国として、多産多売の徹底化を以て、戦時戦後の大景気を作り出した。
今は行き過ぎの咎によって、久し振りで不景気の苦味を満喫しつつあれど、金融的にも、産業的にも、世界をリードする立場は確乎たるものだ。
日本は一に繁栄を金輸出禁止にかけて、而して何物を掴んだのであるか。
米国の例などは何うでもよろしい。
日本は日本独自の経済政策を掲揚して進退するの、寧ろ一見識たるを障げないが、ただ一向に金禁輸にこだわり著いて、不断の繁栄を夢想したのは、守株の愚に堕するところ無かったとは申されまい。
厳重に大金庫の扉をとざして、馬鹿番をしていたところで、肝腎の貿易尻が抜けていては、やっぱり正貨は出て行くのだ。
政府当局者の出たらめな馬鹿囃子につれて、日本国中の人間が浮かれ立って、景気だ景気だと無我夢中で、三十億円の景気祭を踊り狂ってしまったのだ。本気の沙汰じゃないのである。
金禁輸の或る程度の実績は、為替政策の善処に期待し得られぬこともないが、それは真個の或る程度の効果である。
結局は貿易の実勢に引きずられて、入超の正貨決済は避け得らるることでない。
国際取引の当然の手続であり、日本の金禁輸と否とに拘りのないことだ。
正貨決済がいやならば、入超尻をつくらぬ工風が肝要である。無節制な通貨の膨脹を抑制して、輸入の増勢を阻止する他に途はない。
即ち、為替政策では力及ぼず、通貨収縮を基調とする本筋の経済政策に準拠しなければならぬのである。
こんな事は、百も合点ながら、通貨収縮で人気を落すより、熱狂的景気を煽っている方が、政府側の都合がいいので、膨脹政策遂行の方便として叩き出したのが産業振興の題目である。
産業の振興には、潤沢なる資金の融通が必要だ。通貨をたぶつかせて置くのには、金解禁は禁物である。そこで金禁輸を継続して、貿易尻の調節は、為替政策でよろしく糊塗しようと、とんでもない大問題をやり出したのが、高橋是清君自慢の積極政策である。
正金頭取、日銀総裁と、銀行屋から、成り出した大蔵大臣高橋是清君が、この誤った循環論理にとらわれ、為替政策の効験に過信を置いたのは人物相当の芸当として、一個未熟な政治家の失打算が、政党内閣の実際政策となり、やがて国策の大破綻となったのだから袂である。
大正八年から、同十一年上半に至る、戦後経営の最重要の時代に方り、原内閣の蔵相として、首相兼蔵相として、高橋是清君大活躍の大経綸は、こうした滅茶苦茶なものであった。
目的方向の一致しない、金禁輸と、インフレーションの協同作業を以て、日本の産業の劃期的土台固めを、実際に遂行し得る積りであったのなら、それは高橋是清君の思想の混乱以外の何ものでも無かったのである。因果と又、高橋大蔵大臣統制下の、大正八年度から、大輸入超過期が転回して来て始末に行かぬ事となった。禁輸の呪符でぴたりと密封した筈の大金庫から、止め度なく正貨が流れ出して、これや何うもならんと、日本国中の人が気のついた頃には、□勢支え難く、呆然自失の混沌期に到著していたのだ。
産業振興の大太鼓は、無数のコタ事業を叩き興し、叩き潰し、さんざんの為体を現じた。
政府の規模は堂々と拡大され、政費は急激に増加し、国民所得の減退に関係なく、当然増に作為増の責め鼓を打続ける。入超は依然たり、禁輸正貨の吐き出し位で、間に合う騒ぎじゃなくなったのである。


